1985年、滋賀県生まれ。京都調理師専門学校を卒業後「京料理 天ぷら 天㐂」に就職。5年間腕を磨き「じき宮ざわ」へ。2014年料理長に就任。2014年以来、8年連続でミシュラン一つ星を獲得する。器が好きで、遠方の骨董店まで出向くことも。現代アートやファッションにも関心が高く、多趣味で今時な一面も。
すべてのものへの感謝を教えてくれた
憧れの人との出会いが料理人生を変えた
実家の料理屋を継ぐことをひとつの目標に京都の専門学校で調理を学んだ泉貴友さん。西陣の料亭で京料理を身に付けて実家へ帰るつもりが「じき宮ざわ」の店主・宮澤政人さんに出会ってしまった。たまたま食事に出かけ、「この人のもとで学びたい!」と心が動いたという。以来13年間宮澤さんの元で過ごし、8年前には料理長に。卒業後の修業時代のこと、宮澤さんとの出会いについてもお聞きしました。
料理人を目指したきっかけをお教えください
料理は人を喜ばせられると子供ながらに感動
実家は滋賀県・長浜、小谷城の麓にあるレストランです。父が和食、叔父が洋食の料理人で、バラエティ豊かな料理を出していました。地元の方々だけでなく、観光客の方も来てくださる。街の皆さんには、法事など冠婚葬祭に使っていただき、お弁当の仕出しもするという店です。
両親共に店で働いていた事もあって、幼い頃から店を手伝っていました。小学校5年生くらいになると、忙しいみんなに代わって賄料理をつくることもありました。そんな時、母が「美味しいね」と喜んでくれるのが嬉しかった。その頃から、「いつかは家を継ぐのだろう」と思っていましたが「料理人になろう」と思ったのは、自分の料理の腕が少しずつあがって、父や母を笑顔にできた時の事です。料理人になれば、もっと多くの人を笑顔にできるし、喜んでもらえると思ったんです。他には、「食べることが好き」というのもありました。実家で食べる料理が、本当に美味しかったから。今も父や叔父は尊敬する料理人です。
両親共に店で働いていた事もあって、幼い頃から店を手伝っていました。小学校5年生くらいになると、忙しいみんなに代わって賄料理をつくることもありました。そんな時、母が「美味しいね」と喜んでくれるのが嬉しかった。その頃から、「いつかは家を継ぐのだろう」と思っていましたが「料理人になろう」と思ったのは、自分の料理の腕が少しずつあがって、父や母を笑顔にできた時の事です。料理人になれば、もっと多くの人を笑顔にできるし、喜んでもらえると思ったんです。他には、「食べることが好き」というのもありました。実家で食べる料理が、本当に美味しかったから。今も父や叔父は尊敬する料理人です。
専門学校こそが、料理屋への入口
高校卒業後に京都調理師専門学校に通い、日本料理を専攻しました。父が和食を薦めて
くれたこともあって、正統派の日本料理をつくれるようになり、いつかは実家を継ごうと
思っていました。
卒業後、最初に修業に入らせてもらったのが、西陣の「京料理 天ぷら 天㐂」でした。こんな名店にすっと就職できたのは、専門学校で学んだからだと、いまさらながらに思います。「天㐂」には5年間お世話になりました。
専門学校で料理の基礎を学んだとはいえ、実際には調理場ですぐに料理ができるわけではありません。最初は「追いまわし」と呼ばれる雑用係です。掃除をしたり、野菜を洗ったり。たまたま先輩が辞められたタイミングだったこともあって、僕は追いまわしをしながら、焼き場や造り場のサポートもさせていただきました。
時間をかけて倣う遠回りが近道
マニュアルなどがあるわけではないので、仕事の仕方を細かく説明してもらえる事はありません。先輩がされてる様子を見て覚える時代です。それでも、少しでも早く調理を身に付けたいから、睡眠時間をけずって人より早く店にでる。自分の仕事を早く終わらせ、先輩の仕事を見る。そんな日々でした。
今になって思うのは、この「見習う期間」がとても大切だったということ。「見て覚える」修業は、一見遠回りに思えるかもしれません。けれど、職人の世界では、そのように時間をかけて、ひとつずつ丁寧に体に叩き込むことも必要です。あの時間があったからこそ、きちんと調理技術を習得できたと思います。
天ぷらを揚げるところまでは出来ませんでしたが、焼き場や煮方など一通り学ばせていただきました。天ぷらについても、油の温度や衣の状態、具材を油に入れるタイミングなどを常にそばで見ることができました。本当に勉強になりました。
5年経って、「このまま続けるか、実家に戻るか」と尋ねられ、実家に戻ろうと決めました。5年目以降も続けていれば、天ぷらを揚げるところまで任されていたかもしれません。
けれど実際には、実家に戻らず「じき宮ざわ」に入店されました。
宮澤政人さんとの出合いが人生の岐路に
実家に帰る前にいろんな店で食事をして「勉強しよう」と思いました。そんな時に訪ねたのが「じき宮ざわ」でした。料理はもちろんですが、室礼や器、カウンターでのもてなしなどすべてに衝撃を受けました。料亭で働いていると、お客様と接することも、そうありません。「じき宮ざわ」での時間があまりに感動的で、「どうしても、この人(宮澤さん)の下で学びたい」と思ったんです。
「人を好きになるのに理由はない」とよく言いますが、まさにそんな感じです。一目惚れ(笑)です。とにかく「この人みたいになりたい」と思った。もう、いてもたってもいられなくなって、1カ月後にもう一度食事に行きました。そして、見送りに出てくれた宮澤に、想いを書いた手紙に履歴書を添えて渡し、「生意気ですが、お世話になれませんか」とお願いしたんです。
3年の予定が、気付けば13年!
宮澤も神奈川で働いていた時に、何度も京都の料理屋の門をたたいたそうです。でも、門前払いをくらうなど、なかなか入りたい店に入れなかった。そんな経験があったから、「いつか自分の店で働きたいという志望者が現れたら、必ず受け入れよう」と思っていたそうです。
後で聞いた話ですが、宮澤も京都に通って色々な店に応募した時に、「いいよ」と言ってもらえたお店の中に「天㐂」があったようで、そんなところも、縁を感じてもらえたことの一つだったようです。
よく覚えていないのですが、宮澤との面接の時に僕は、「3年ぐらいお世話になれれば」と言ったそうです。ところが、今年で13年。まさかこんなに長くなるとは思ってもいませんでした。
「じき宮ざわ」の名物料理「焼き胡麻豆腐」。店主宮澤さんが修業時代から独立するまで学んだすべてを結実して生み出した料理。胡麻の香ばしさやまろやかな味は唯一無二。
料理技術より大切なこととは
実際に、店で仕事をはじめると、宮澤政人という人の姿勢にますます惹かれました。僕たち働く人への接し方がまったく違うんです。調理についての細かなことは一切言わない。それよりも「お客様はもちろん、食材に対する感謝やそれをつくってくださる方への感謝を決して忘れてはいけない。日々、それを心に仕事をしてほしい」と言います。
料理人としての技術を磨いて美味しいものをつくることも大切だけれど、その前に感謝の心をもたなければ、技術も向上しない。宮澤のそばにいればいるほど、それが言葉だけではないことがわかっていきました。
僕自身、自分の技術的はまだまだだと思っていましたし、初心にもどって学ぼうという気持ちでしたから、逆に宮澤の言葉がするすると体に入りました。食材選びは慎重ですし、仕込みにはたっぷり時間をかけます。けれど、仕上がる料理は、そんなバックボーンが見えないくらいシンプルです。茶懐石に則っていることもありますが、多弁ではない無口な料理。けれど、食べるとその誠実さが伝わる。
とにかく、この人のようになるにはどうしたらいいのか、すべてを吸収したいと思って日々を過ごしたら、あっという間に時間が経っていました。
宮澤コピーから泉スタイルに
8年ほど前に、料理を任されていた旅館の仕事が終わりました。スタッフも増えていたので、そことは別に定食店でも出そうという話になりました。ところが、物件を決めて改装を始めると、ご存知のように宮澤は凝り性なので、天井は網代で、床は陶板に、土壁を塗ってと趣向を凝らします。そうしている内に、宮澤自ら「この店をやりたい」と思うようになったようです。
そんなある日、「じき宮ざわは、泉に任せようと思うけど、どう?」と宮澤から尋ねられました。嬉しかったですね。自分が店を任されるなんて想像もしていないことでしたから。「やってみたい」という気持ちが湧き上がりました。何より宮澤に「任せたい」と言ってもらえた事が嬉しかったし、その気持ちに応えたいと強く思いました。
でも実際に一人でやってみると、あまりにも宮澤が好きで見習っていたから(笑)、お客様に「宮澤さんとそっくりやなあ」と言われました。料理の味や見せ方はもちろん、話し方や立ち居振る舞いまで同じになっていたんです。
今はどうでしょう? 意識して変えることはありませんが、徐々に自分らしい料理や接客ができるようになっているんじゃないでしょうか。8年前に店を任されてから今まで、宮澤は一度も料理や経営について口を出してません。
ただ一度だけ、他のお客様と一緒に突然客として来店した事があって。驚きましたね。でもその時も、何も言わずに笑顔で帰って行きました。
実は、いまだに実家には「戻らない」と言ってません。「いつかは自分の店を」という気持ちはありますが、「独立するならやっぱり京都で」とぼんやり思っています。両親も、なんとなくわかってくれているというか、好きなようにさせてあげたいと思ってくれているのだと思います。
後半へつづく
じき宮ざわ
住所 京都市中京区八百屋町553−1
☎ 075-213-1326
営 12時〜13時45分、18時〜20時(いずれも最終入店)
休 水曜