リストランテ ナカモト オーナーシェフ
仲本章宏(なかもとあきひろ)氏
1979年4月19日生まれ。京都府木津川市出身。地元の高校を卒業後、辻調理師専門学校へ進学。卒業後は奈良のイタリアン数軒で働いたのち、20歳でイタリアへ渡る。シエナの「バゴガ」で約1年、フィレンツェの「エノテカ・ピンキオーリ」で4年半修業。「エノテカ・ピンキオーリ」在籍中はパスタ作りを任される。その後、ニューヨークの「ファライ」、南青山の「イル・デジデリオ」を経て、2011年11月に地元・木津に念願の「リストランテ ナカモト」をオープン。
20歳で自分の“武器”を見つけにイタリアへ
フィレンツェの三ツ星店でパスタの技術を磨く
京都府の南部、奈良との県境に近い木津川市に、2011年にオープンしたレストラン「リストランテ ナカモト」。一軒家のモダンな空間の中で、オーナーシェフの仲本章宏さんが、イタリアで極めた生パスタや、地元農家から届く季節野菜を使った華やかな前菜など、繊細かつ独創的なイタリアンをおまかせコースで提供。近畿圏はもとより、関東、九州からも多くのリピーターが足を運んでいます。幸運もあって、フィレンツェの三ツ星で修業することになったという仲本さん。修業時代のエピソードや独立までの経緯、今後の展望などを伺います。
料理人になりたいと思われたのはいつ頃ですか?
地元の食堂を経営する両親のもとで育つ
記憶にはないのですが、保育園の卒業文集に将来は料理をするみたいなことを書いているんですよね。実家が食堂で、保育園から帰ると両親が働いている横で本を読んだり、お客さんに仲良くしてもらったりしていたし、小学生の頃は夏休みとかに出前や洗い物の手伝いもしていました。そういう食を提供する環境が常に身近にあったからかなとは思います。ただ、中学高校の頃はクラブ活動で手伝う時間もなかったし、母からは、しんどい仕事だから絶対に料理はやるなとずっと言われていました。
父親の勧めで調理師専門学校へ
高校卒業時、母からは大学へ進学しろと言われていて。でも、大学で勉強したいことが何もないし、フリーターにでもなるわと言ったら、それまで僕の進路について何も言わなかった父が、「学費は出してやるから、料理の専門学校に行ってこい」と言ったんですね。自分は料理のことしか言えないし、直接料理を教えることはできないけれど、一度料理の学校へ行って料理が好きだったらそのまま就職しろと。それで、親父がそう言うなら行こうかとなったんですけど、親の金で学校へ行って1年間遊べるくらいの気持ちで、本当に料理が学びたいというのではなかったです。
だから、学校からもらったプリントや教科書、全然残ってないんです。毎日学校には行くけれど、真面目に聞いていなくて。メモを取ったこともあまり覚えてないし、調理実習もかつらむき難しかったとか、そんなことしか覚えてない。今から考えたら恐ろしいですね。親から高いお金出してもらったのに何も勉強しないで、ほんまにアホやなあと。あのときしっかり勉強しとけばよかったと後悔しています。
奈良での修業時代にイタリアへの憧れを持つように
それから料理学校を卒業するときに、どこかレストランに就職しないといけないとなって。イタリアンで実家から通えるところをと思い、奈良市にあった「アスティ」というパスタのお店に就職。3ヶ月勤めたあと、香芝市の「ヴィヴェンテ」というお店で1年半、それから奈良市内の「メローカフェ」で3ヶ月働きました。
就職して最初の頃は苦労しましたね。例えばカポナータと言われても、どんな料理か全然覚えてない。「辻調行ってたんやろ。何で知らんねん」と、よく言われました。調理師学校で学ぶことって、それくらい現場に出てすぐに使えることが多い。それをやらなかった僕は戦力にならなくて、よく怒られていました。ただ、今でこそ言えますが、あのときやっとけばという思いがあったからより頑張れたというのはあるし、知らなかったからもっと料理のことを知りたいと思ってイタリアへ行くこともできたので。
「ヴィヴェンテ」にはイタリア帰りのシェフがいて、その人からイタリアのことをいろいろ聞くうちに自分も行きたいと思うようになったんです。シェフの話を自分で確認したいという気持ちがあったし、料理雑誌に出ているどのシェフのプロフィールにもイタリアで修業と書いてあって、イタリアは絶対行かなあかんと。それでお金を貯めて20歳のときにイタリアへ行ったんです。
最初にどこへ行かれたんですか?
シエナの郷土料理店で働きながらイタリア語を学ぶ
シエナです。シエナの外国人学校にイタリア語を教える2ヶ月半の短期コースがあったので。そこは国立の学校でビザがとても取りやすいと言われていて、授業料も一番安かった。その2ヶ月半の間に働けるレストランを探して見つけたのが、「バゴガ」という郷土料理を出すお店でした。ここは40席ほどの小さいレストランで、家族経営の食堂のような雰囲気だったからなじみやすかったですね。トマトソースのパスタや、リボリータという豆と野菜の煮込みなどの郷土料理があって、地元の人が食べに来てお酒飲んで帰る、みたいな。家族のようにやさしくしてもらいましたし、言葉も覚えやすかったです。ただ、素材の美味さが前面に出るような料理を出すレストランだったので、やっぱり料理的には最先端ではないし、そんなに面白くない。だから、ある程度言葉が話せるようになったら次の店に行こうと思っていました。
料理人を目指す場合、言葉の問題があるから現地に行くほうがいいということはありますか?
何もわからず送った手紙がフィレンツェの名店に入るきっかけに
それはないですね。それよりもこの人から学びたいと、そのシェフを好きになることが一番大事。シェフの料理にほれ込んで、この人だったらきつく言われても耐えられる、一人で行く寂しさ以上にこれを学びたいと思える場所を選ぶべきだと思います。今は情報量が多いし、インスタなどを使って直接シェフにアクセスできますから。僕のときは手紙を書いて返事がくるのを待たないといけない、電話しても出てくれない、出てもイタリア語が早口でわからないとか、どうしようって頭をひねりました。
そうした就職活動をしていく中で入ったのが、フィレンツェの「エノテカ・ピンキオーリ」でした。これは僕が間違った手紙の出し方をして、運よくかかったというかたちです。そこにはアニーさんという総料理長がいるのですが、実際はその下にいる2人のヘッドシェフが厨房を切り盛りしているんです。皆それを知っているからその2人に手紙を書くわけですが、僕は何も知らずにアニーさんに手紙を出して。そしたらアニーさんから電話があり、翌日にフィレンツェに行って話したら採用してもらえることになったんです。そのとき彼らにも紹介されたのですが、すごくにらまれたんですよね。もうすぐコックが1人辞めるということで、次に入れたい人のリストがたくさんあるわけです。それで「どうやってここへ入ってきた、お前アニーさんの知り合いか」とか言われて。アニーさんが採用と言うから厨房に入れましたが、当たりはすごく強かったですね。
無茶な要求にも負けず、努力を続けて認められるように
次の日からずっとそこを掃除しとけとか言われて、完全にいじめられているなと。でも、イタリアでミシュランのレストランの厨房に入れるなんてなかなかないし、仕事さえやっておけば何かしらチャンスはあると思っていましたね。雑用ばかり回ってきましたが、それがまた面白い雑用で。例えば、きれいなバットなのに角が茶色いから全部磨いとけという。とりあえずバットを一枚ずつ真珠のように光るまで一日中磨いていたら、「お前まだやってるのか、それは洗い場に持っていけという意味だ」と。磨いているのを何度も見かけているのに、一日磨いたあとで言うんですよ。でも、そんなふうに雑用を言われる中で、言われたことをちゃんとやると認められたのかな、と思えることは何度もありました。そこで適当にやっていたら、当たりはもっと強かったかもしれません。
そこからだんだん普通の仕事を与えられるようになり、入って半年ほどでパスタ場になったんです。「ピンキオーリ」のパスタは歴代の有名な日本人シェフがやっていて僕の中では花形だったから、こんなチャンスはないと思いました。
自分の武器を持とうとパスタに専念
その1年後、店が三ツ星に返り咲いたときも、生パスタは僕が全部打っていました。毎日80~120人ほどのパスタを3種類くらい出すのですが、作り置きできないし、営業が始まる数時間前からしか作れないから、どれだけ手早くしても間に合わない。毎日怒られながら学んでいく中で、パスタ作りが面白くなって。それで、こんなにパスタを作れる機会は日本でもイタリアのほかのレストランでもないから、ここでずっとパスタを勉強したいと言ってやらせてもらっていました。
僕は、何か武器を持って帰らなあかんと思って海外へ出たんですよ。ピンポイントでイタリア人と張り合えるものをと考えたときに、もうパスタしかないなと。生地を練って伸ばして生パスタを作ることに特化したいと思ってやっていたんです。その間、前菜の部門シェフになる話もありました。部門シェフになれば給料は上がるし箔も付く。でも、それより世界中どこ行っても絶対においしいと言ってもらえるパスタの技術があるほうがいいと思ったんですよね。
後半へ続く
リストランテ ナカモト
京都府木津川市木津南垣外122-1