のぐち継 店長
吉田大輔(よしだだいすけ)氏
1986年7月28日生まれ。長崎県の五島列島出身。高校卒業後、福岡の寿司割烹「河庄」で約8年間修業する。その後、「京都ブライトンホテル」の日本料理店「蛍」、東京の高級日本料理店「銀座 小十」、京都の「しょうざんリゾート」などを経て、「京天神野口」へ。2019年11月にはオーナー野口氏から見込まれ、2号店「のぐち継」の店長・料理長に就任。店は2020年から毎年「ミシュランガイド」の一つ星を獲得している。
子供の頃からの夢・料理人になるため福岡へ
向上心を持って着実に実力を磨いていく
日本料理店「京天神 野口」の姉妹店として、2019年11月祇園にオープンし、たちまち人気店の一つになった「のぐち継」。京町家の趣ある空間では、本店の味と技術を継承しながらも、五島列島や長崎の食材を取り入れた独自のコース料理を堪能できます。店長として腕を振るう吉田大輔さんは、博多の老舗寿司割烹や京都のホテル、東京の名店などで力をつけてきた注目の料理人です。若い頃から将来のビジョンをしっかり持っていたという吉田さんに、修業時代のエピソード、料理人としての思い、今後の展望などを伺います。
小さい頃になりたかった職業はありますか?
豊かな食材に恵まれた環境で育ち、自然と料理人を目指すように
漠然とですが、僕は小学校低学年ぐらいから何か料理に携わりたいと思っていたんです。そのきっかけは3つあったと思っていて、一つは風土に恵まれていたということ。五島列島の漁師町という常に新鮮な魚を食べられる環境にあったし、どこの家も自分の畑を持っていたので、おいしい野菜も手に入った。祖父が山を持っていて、山菜やタケノコ、クリなどを採りに行ったりもしていましたね。
それと、母が料理上手だったということもあります。僕も家庭科の調理実習が好きだったし、授業がある土曜のお昼とかに自分で何か作って食べたりしていました。あと魚に関しては、好きな釣りに行って自分で釣った魚も小さなアジくらいはさばいていましたね。母が大きいものから小さいものまで、魚をさばいているのを当たり前に見ていましたし。
それから、これが僕の中で一番割合が大きいのですが、小学校低学年の頃、テレビでやっていた「料理の鉄人」という番組が大好きで。料理のことはよくわからないけれど、鉄人といわれるお三方に挑んでいく姿がすごく眩しく、楽しかったですね。鉄人シェフの中でも道場さんはそんなに負けることがなくて、カッコいいなと思っていました。
卒業後はすぐに博多の料理店で修業
だから、高校卒業後の進路も僕の中では決まっていて、あとはどういうジャンルに、どういう道で行くかというところだけでした。料理の仕事をやりたいと話したとき、両親は少し驚いていましたが。最初は料理の仲間がほしかったので専門学校に行くことも考えたのですが、ちょうど父の後輩で、博多の「河庄」で昔料理長をされていた方と話す機会があって。その方からそのまま現場に入るほうがいいと助言され、本当は和食をやるつもりはなかったのですが(笑)、その方に紹介していただき「河庄」に行くことになりました。
修業に入って想像と違ったことはありましたか?
野球をしていた経験が生きた厳しい修業生活
そうですね。やっぱりテレビで観ている部分は一番華やかなところだけで、裏の部分は実際に入ってみないとわからないことだったので、「何で自分はこんなことを延々とやらないといけないのかな」ということはありましたね。勤務時間も長かったし、一緒に入った仲間のほとんどが辞めていきました。毎年4、5人入って、1年で1人残ればいいぐらいの感じでした。博多では寿司割烹のはしりとして知られた老舗でしたから、昔ながらのやり方で厳しかったですね。その中で、僕は何の知識もなくいきなり修業に入ったために、こんなもんかなあ、くらいの感覚でいたので頑張れたのかもしれません。僕の場合、高校まで野球をやっていたので部活の延長みたいな感覚でした。料理も野球と同じで自分の技術を磨こうというのは常にあったし、部活である程度忍耐力がついていたことも役に立ったと思っています。
いかに自分のポジションを上げていくかを考えた
最初の2年ほどは本当に雑用ばかりで、そこで頑張れると、ポジションが一つ上がって本当の意味での仕事を与えてもらえるんです。あとはそこからどれだけ欲を持ってやっていけるか。任されたところを頑張って、それなりの知識と技量がつけば次のポジションにいけるとわかったので、そのポジションの先輩の技量やらを見て、それほど自分と変わらないなら、ちょっとあいつ下ろしたろか、みたいな(笑)。だから、いかに早く自分の仕事を済ませて上の人たちのサポートに回れるかというのは、毎日考えていましたね。いきなり「お前、これやってみろ」と言われるようなお店だったので、そこでいかにうまくできるかが大事で。やってみろと言われて先輩よりうまくこなすことができたら、「こいつ、任せられるな」と判断してもらえるので、いつ言われてもいいように準備していました。
準備としては、就業後に自分の技術を磨く。例えばかつらむきを薄く長く早くできるようにするとか、どの魚もきれいに三枚におろすとか。魚はスーパーで安い魚を買ってきておろしたり、朝、出勤前に魚屋さんに行って魚をおろさせてもらったり。そんな感じで技量を磨いていきました。
将来への明確なビジョンを持って
また、店にはどんな仕事をしても所作を含めて完璧だなと思う9つ上の先輩がいて、自分も同じようになりたいと目標にしていました。調理の中では一番重要な煮方をされていて、自分の仕事をしながらその方の仕事を観察したり。とにかくできるだけ早く若いうちに全ポジションを経験して、何でもできるようになりたかったんです。そして、いつまでに次のポジションに上がるとか、いつまでに独立するとか、そういう的確なビジョンを20歳くらいのときに決めて取り組んでいきました。そのほうが、自分が何をしなければいけないのかがわかるし、漠然と時間を過ごすことほどもったいないことはないので。
8年間勤めたお店を辞め、京都のホテルへ
「河庄」で煮方を一緒にやらせてもらうまでにはなって、25歳のときに「京都ブライトンホテル」の京料理店「蛍」へ移りました。店のおやじさんには何年も前から京都へ行かせてくださいと毎年話していて、ようやく許しをもらえたので。ブライトンホテルへは、おやじさんが福岡にある「なだ万」の当時の料理長と仲が良くて、その方が京都に後輩がいるからとつないでくださったんです。初めて店を移るので、やっぱりすごく緊張しましたね。「河庄」の看板も背負いつつ、おやじさんの名前も汚さないようにしないといけないという覚悟はありました。しかも福岡から他府県へと環境が大きく変わるので、自信はありつつも、ドキドキしながら京都に行きました。
京料理のお店に移られたわけですが、違いはありましたか?
初めはホテルならではの大量調理に戸惑いも
料理の面では特になかったです。ただ、ブライトンホテルでは同世代が多く、今までにない環境でした。また、当時は原価を気にせずうまいものをどんどん出せという感じだったので、既製品を使わず全部手仕事でやっていたんです。だから、朝早くから夜遅くまでとんでもなく大変でした。また宴会の料理もやるのですが、あれだけの量の調理をやるのは初めてで、しかも手仕事だとより丁寧に早くやっていかないと追いつかないため、最初は苦労しました。例えば夏場の鱧だと40~50本を全部自分たちでさばいて骨切りするので、包丁もスペアがないと一日乗り切れない。前の店ではないことだったので驚きました。でも、そんな大量の仕事をこなすチャンスってないことで、いろんな意味で鍛えてもらいましたね。またホテルは衛生面にすごくうるさいので、衛生面への意識は明らかに高くなりましたし、料理以外のこともより気を遣うようになりました。
大きな組織の中で得られた人としての学び
料理以外では、先輩や後輩との付き合い方も勉強になりましたね。本当にいろんな人間がいたので、ぶつかることもあったんですけど、それはいいモノを作るための真剣なやり取りの中でのぶつかり合いなわけです。前のお店ではおやじさんが絶対的なところにいて、僕には初めてのことだったので良かったのかなと思います。
もちろんホテルでもトップは絶対的ですが、規模が大きい分、こちらからの提案を聞いてもらえる部分があって、下の子とかもバンバン意見を言ってくるんです。そんな後輩たちへのアドバイスを今まで以上に考えたり、上の人とのつなぎ役になったり。後輩を指導するのにも、厳しくやって伸びるタイプ、褒めて伸びるタイプといろんなタイプがいることがわかって、指導の仕方の幅も広がりました。そういう意味では、人間としても料理人としても、一回りも二回りも大きくしてもらったかなと。特に、他のセクションの人たちとのコミュニケーションをとるなど、人としての学びが大きかったかもしれません。
後半へ続く
のぐち継
京都市東山区清本町371-4