この連載では、新しい視点で自分らしい働き方をする若手シェフにインタビュー。どうやって自分らしさを見つけたか? どうやって今、自分らしく働いているか? シェフたちの道のりや、現在の仕事について聞きます。
vol.14 シュヴァル・ドゥ・ヒョータン 川副 藍(前編)
徐々に目標が明確化し、店を持つに至った
「シュヴァル・ドゥ・ヒョータン」は2012年に東京・池袋にて、川副藍さんが夫の貴央さんとオープンしたフランス料理のレストランです。大ターミナルである池袋駅から徒歩5〜6分という便利な土地ながら、立教大学や東京芸術劇場が近い文化が薫るエリア。そんな場所にある閑静な住宅街の一角に立地します。
川副さんは、会社勤めと専業主婦を経た28歳の時にプロの料理人をめざしたという、異色の経歴を持ちます。2回に渡ってお届けするインタビューの初回は、川副さんが料理の道に入り、店をオープンするまでを紹介。後編では店を持ってから現在に至るまでの足跡を伝えます。
プロフィール 川副藍 かわぞえ あい
大学卒業後、金融系の会社に勤務。働きながら、カジュアルからフォーマルまで幅広いレストランでの食事に情熱を傾ける。退職後「ル・コルドンブルー東京校」で学び、在学中にプロの料理人になると決意。卒業後「ランスヤナギダテ」に就職し、その後「ラール・エ・ラ・マニエール」、コンラッド東京「ゴードン・ラムゼイ」で経験を重ねる。2012年、夫の貴央氏とともに「シュヴァル ドゥ ヒョータン」を開業する。
自分は料理を食べる側だとずっと思っていた
――川副さんはいつ、料理人をめざすようになったのでしょう。
料理人になろうと決めたのは28歳の頃。プロをめざすにしては遅いですよね。
ただし食への興味は大学生時代から非常に強くありました。社会人になってからは、貯金もせずにレストランでの食べ歩きにお金を注ぎ込む生活(笑)。結婚してもそれは続きました。
おいしい料理を食べるのが本当に楽しく、特に非日常的な幸せを感じさせてくれるフランス料理のレストランに強く惹かれました。そんな体験から、のちに料理の中でもフランス料理の道を選ぶことになったのです。
――どのような経緯で、プロの料理人になろうと意識しはじめましたか?
正直に言うと、ずっと自分は食べる側で、まさか作る側にいくことになろうとは長らく考えていませんでした。意識するようになったのは、ル・コルドンブルー東京校で学んでいた最中です。
実は私は会社勤めの後、一時期専業主婦をしていたのですが、その時に「料理に関わっていたい」、そして「社会とつながっていたい」という思いが自分の中に強くあることに気がついたんですね。それでまずは料理を真剣に学ぼうと思い、コルドンブルーに入ったのです。そのために退職金をはたき、退路も断ちました。
コルドンブルーではフランス料理を体系的に学ぶことができ、それは今に至るまで非常に役に立っています。清潔にすること、材料を無駄にしないという基本的なことを徹底していたのも学びになりました。あとは骨やガラはフォンやソースに使う、端肉はソーセージにするなど、素材をすべて使いきるフランス料理の考え方や技術もしっかりと教わりました。
そして卒業後これを生かすにはどうすればよいかと考えた時、料理教室を開くか、レストランに就職するか、という二つの選択肢が頭に浮かんだのです。だったら私は性格的にレストランの現場が向いているな、その方がかっこいいな、と、すんなりと決めた……という経緯です。
在学中からレストランに皿洗いで研修に入っていて、この世界の空気感を感じることができたのも大きかったです。でも、コルドンブルーを出てレストランに就職する例は少なかったようで、先生方には「本当に大丈夫?」と心配していただきました。でも私は、だったらやってやろう、と思うタイプ(笑)。研修に入っていた「ランスヤナギダテ」で引き続きお世話になる形で就職しました。
惨めさよりも、仕事がない方がキツい
――その気概で修業に入って、どのような経験をなさいましたか?
ポジションとしては前菜担当、付け合わせの仕込み、デザートの仕込みなどをしていましたが、そうですね、ひとことで言うとつらかったです(笑)。何しろ私自身が本当に経験も技術もないわけですから。
コルドンブルーは1年間週に2回というペースだったので、知識と技術は教えていただいたのですが、それが身体に染み込んでいるかというと、そんなことはないですよね。レストランの現場に入ったら、自分より10歳ほど下の子たちが、私より格段に仕事ができる。なので、悔しいというか惨めという言葉がぴったり。修業中はそんな思い出がほとんどです。
――そうしたキツい状況は、どのように乗りきりましたか?
何よりも、仕事がないのが一番つらい。なので、未熟ながらも自分からどんどん仕事を見つけ、やらせていただくよう努めましたね。必死そのものです。当時は早朝から夜遅くまで本当に張り詰めて働き、「終電で帰ります」とは言いたくないので自転車通勤にして。とにかく仕事が欲しくてしょうがなかった。
あと、もちろん働いている瞬間は集中し、もどかしく悔しい気持でいっぱいになったりするのですが、年齢を重ねていたので、それが人生のすべてではないというのは少し見えていました。「これは、今の自分にとっては必要な時間なのだ」と客観的に判断できたのも、くじけずにいられた理由かもしれません。
お客さん目線には自信があった
――ランスヤナギダテでは1年間、その後「ラール・エ・ラマニエール」で1年間、コンラッド東京「ゴードン・ラムゼイ」で1年間働いてから、ご夫婦でお店をオープンしました。開業はいつくらいから意識したのでしょう。
徐々にそう思うようになったので、はっきりと「いつ」ということはないのですが、あえて言えばラール・エ・ラ・マニエールで働いていた最中でしょうか。
夫と「この先、店を持てるといいね」と話しはじめたのがその頃です。となると、私が当時30歳前後で、夫は私より一回り上なので、年齢的にもできるだけ急いだ方がいい。ならば、さまざまなタイプのレストランで幅広く学ぼう、ということになりました。
ランスヤナギダテはオーセンティックなフランス料理、ラール・エ・ラ・マニエールはフランスと時差のないモダンなフランス料理を学ぶことができたので、次はホテルで、という選択に。コンラッド東京のゴードン・ラムゼイで働くことにしました。ここでは、料理をシステムとして捉え、オベレーションにつなげる厳格な方法を学ぶことができました。
――オープンにあたって、特に気をつけたことは何でしょう?
基本かもしれませんが、まずは立地で失敗しないことを意識しました。
自分たちは飲食業をやったことはないけれど、食べる側という意味では経験を重ねてきました。そこに全てのお金と時間を費やしてきたようなものですから(笑)。なので、どういうお店が喜んでいただけるかというお客さま目線には自信と経験があったのです。
池袋という土地は私たちの家から近く、ずっと生活圏だったのですが、この辺りには「大人が、少しだけいい食事を食べるお店」が本当に少なかったんです。古くからのいい住宅街も控えているので、きちんとしたお店を作ればその方面からのお客さまも来られるはず、という見込みもありました。
池袋を選んだもう一つの理由は、素晴らしいシェフ皆さんたちが青山や銀座でお店をやられている中、わざわざ自分たちがそこで勝負をする意味もない、という思いもありました。そういう点で、池袋はちょうどよい街だったのです。
――どのようなスタッフの体制でスタートしたのでしょう?
――どのようなスタッフの体制でスタートしたのでしょう?
キッチンが私含めて2人、サービスは夫と学生のアルバイトさんという体制です。
最初は夫婦二人でカウンター8席ほどの店を、人を雇わずに経営することを考えていました。でも、どうしてもそれに合致する物件が見つからず、最終的には20数席が入る今の場所を借りることにしたのです。
となると、さすがに20席を夫婦で回すのは無理なので、人を雇わなくてはいけません。そして、私も、最初からシェフとしてこの席数に対応できる自信がありませんでした。
なので、最初の1年間は別の方にシェフに立っていただき、私は彼の下で前菜を担当。経験を積んだあとにバトンタッチ、という形を取りました。
――冷静な判断と計画ですね!
それはやはり、失敗はできませんから(笑)。
第一は食べていけなくてはしょうがないので、お店をやるなら成り立つものを作らなくてはなりませんよね。何でもそうだと思いますが、目標に向かって自分に足りないパズルのピースを埋めていくために、何からやろうというのを具体的に考えつつ動いていくのがいいのかな、と思います。
私は最初は「料理を一生の仕事にする」という決意以外は漠然とした状態からこの世界に入り、徐々にプロをめざし、徐々に開業をめざすようになりました。最初から大きな目標を定めるのもいいですし、海外に行きたい、独立の前にシェフになりたいというその時々目標をクリアするのもよいです。その人ごとの道があるはずです。
ただし、まずは就職したら、その店で自分が本当にお給料をもらえる役割を果たせているか。そこが出発点だと思います。そこから客観性を持ちながら、目標に一歩ずつ近づいていくのが大事なのだと思います。
(次回は、川副さんが店をオープンしてから現在に至るまでをお伝えします)
シュヴァル・ドゥ・ヒョータン
豊島区西池袋3-5-7 ウィルコート1F
03-5953-3430
http://cdhyotan.tokyo
撮影/小沼祐介