RAKUSUI オーナーシェフ
佐藤和博(さとうかずひろ)氏
1976年1月1日 北海道生まれ。高校を卒業後、大阪あべの 辻調理師専門学校に進学。卒業後は「新阪急ホテル」に入社。1年後、芦屋にある老舗中国料理店「東天閣」に転職し、約7年間修業。その後、西梅田のイタリア料理店「ア・パレット」を経て、北新地の「RAKUSUI」で店長として腕を振るう。2007年5月に店を引き継ぎ、オーナーシェフに。コロナ禍による営業自粛期間中に製作した「修羅場かるた」も大きな話題を集める。
佐藤和博(さとうかずひろ)氏
1976年1月1日 北海道生まれ。高校を卒業後、大阪あべの 辻調理師専門学校に進学。卒業後は「新阪急ホテル」に入社。1年後、芦屋にある老舗中国料理店「東天閣」に転職し、約7年間修業。その後、西梅田のイタリア料理店「ア・パレット」を経て、北新地の「RAKUSUI」で店長として腕を振るう。2007年5月に店を引き継ぎ、オーナーシェフに。コロナ禍による営業自粛期間中に製作した「修羅場かるた」も大きな話題を集める。
中華の料理人になるべく、北海道から大阪へ
密度の濃い専門学校時代を過ごし、料理修業をスタート
大阪・北新地にある人気の中国料理店「RAKUSUI」。四川麻婆豆腐ならぬ「五川麻婆豆腐」、「プラネタリウムのような酢豚」、「お寿司のようなお刺身のサラダ」など、オーナーシェフ・佐藤和博さんが繰り出す独創性あふれるメニューが評判のお店です。その店づくりには、佐藤さんが子供の頃になりたかった職業への憧れが生かされているといいます。料理の道に入ったきっかけから、オーナーシェフになるまでの経緯、料理人としての思いなどを伺います。
ご出身は北海道なんですね。
母の“優しい洗脳”もあり料理の道を選択
北海道の北見市というカーリングで有名な街です。高校まで北見で、その頃は作家か、プロレスラーになりたかったんです。小6ぐらいのときに劇団四季の『オペラ座の怪人』を観てお芝居にハマって。三谷幸喜さんとか、とにかくお芝居がすごく好きだったんですよ。それで芝居書きたい、と。プロレスに関しては、何か驚かせたいとか、アッと言わせたいっていう。そういうエンターテインメント性を追求することに関しては今もそうですね。
それで高校の進路相談で、進路指導の先生からどうするか聞かれたときに、作家のなり方はわからないから、プロレスがしたいなあと。メキシコに「ブチャリブレ」というプロレスがあるので、大のプロレスファンでもあるその先生に「メキシコでブチャをしたい」と言ったら、まだ無茶だと言われた(笑)。
じゃあ、一応料理はできるし、父は料理人になりたかったそうだし、料理をやろうかとなったんです。父は早くに亡くなったのですが、「お父さんは料理が得意だったんだよ」と、母から何度も何度も言われてきて、優しい洗脳をかけられていたわけですね。料理は、友達が来ても何かをふるまったりすることはできるし、現実的に今できそうなのは料理ぐらいしかないなと思いました。
自分でご飯作りをされていたんですか?
自分でご飯作りをされていたんですか?
子供の頃のご飯作りが料理人としての原点
母親の帰宅が遅かったから、せざるを得なかったんです。ちゃんとしたものを作れたわけではないですが、自分で手を下したものが最終的にどんな味になるかという実験を繰り返すことができた。これは興味深かったですね。家にあるいろんなものを組み合わせて、自分が食べられるものを作らなくちゃいけないので。それが今の自分の原点でしょうね。家に遊びに来た友達に長くいてもらうために、何か作ってやるからと言って引き留めるわけです。これも料理人としての原体験の一つではあります。手の込んだものを作ればより長くいてくれるし、それでおいしいと言われたら感動しますよね。またそのクラスメートが「カズのハンバーグ、なまらおいしかったんだよ」と学校で言ってくれたりして、ちょっと得意げな気持ちになりましたね。
「料理の鉄人」で中華の料理人に憧れて
それで料理をやろうと思ったのと同時に、当時テレビの「料理の鉄人」がアツかったんです。出演している鉄人の中で、陳健一さんが唯一、麻婆豆腐という必殺技を持っていて、プロレスファンの自分にとってはそれがカッコいいわけです。俺と言えば麻婆だろうみたいな雰囲気とか、包丁の大きさとかも含めて「あ、この人カッコいい」と。中国好きだし、三国志も好きだし、じゃあ中華料理をちゃんとしようじゃないかと思ったんです。
中華料理をちゃんと学べる学校を調べたら、大阪なら中華料理の専攻コースがあるということで、大阪に行きました。北海道から一旦出たかったので、北海道の学校はまったく考えていなかったですね。それに当時、お笑いのダウンタウンが大人気だったので、大阪への憧れもありました。
1年間、中華料理の勉強に集中
調理師専門学校は1年間で、通常のカリキュラム以外に特別にお金を払って放課後行われる中華専門のコースも受講しました。そのコースでは、月1回ぐらい、陳健一さんとかテレビで拝見するような著名なシェフの授業を受けることもありました。学校では和食とか製菓とか一通りやるんですが、中華料理に心が傾いていたので、中華だけは満点を取らなきゃいけないという思いがありましたね。母が高い授業料を出してくれているし、中華だけは知らないことはない状態にしなきゃと。だから、実技と筆記で満点を取るぐらい真面目にやっていました。中華料理に関する言葉を覚えたり、歴史的な背景を知ったり、楽しく学んでいたと思います。
アルバイトで修行のような生活を経験
その学校には、遠方から来る生徒にアルバイト先を紹介し、そのアルバイト先が住居も用意してくれる「アルバイト進学」という制度があって、僕もそれで紹介されて、住み込みで富田林のステーキハウスでアルバイトをしていました。2階の12畳ぐらいのスペースに二段ベッドを2つ置いて、男3人の共同生活です。事務所の前を通らないとお手洗いにも行けないので、休みの日もちゃんと身なりを整えて、料理長がおられたら挨拶してと、気が休まることがまずない。本当に軍隊みたいに厳しくて、最初の3ヶ月ぐらいは毎日怒鳴られ続けていましたね。それでも、休みの日に出てきて、掃除が一番やっかいな場所を掃除したりしました。部屋にいても何もすることがないし、やってあげたら絶対喜ばれて、自分がそこにいやすくなる。一番嫌な役を楽しんでやれるほうがいいなと思ったので。
料理は初めての賄い当番とか、結構やらせてもらいました。僕は好き嫌いが多かったのですが、先輩が作るものを残すことはできないので好き嫌いはそこで全部なくなりましたね。先輩方の料理はおいしいし、作っている様子を見ていると、食材に対する誤解が解けておいしそうって思える。料理人てすごいなと思いました。先輩たちには家のお風呂を使わせてもらったり、ご飯連れて行ってもらったり、可愛がってもらいましたね。
学校の勉強もアルバイトも本当に必死でしたし、この1年間は自分にとって宝物になりました。
調理師学校を卒業後、すぐに就職されたんですか?
北海道で就職するつもりが、意外な展開に
そうですね。就職先は大阪の新阪急ホテルだったんですけど、これが間違えて入社してしまって。というのは、母が昔、北海道の有名ホテルで働いていたので、そこを紹介してもらうつもりでいたんです。それが、同級生が新阪急ホテルに就職活動に行って軒並み落ちて帰ってくるのを見て、そんなに難しいものならと、遊びで受けたのが受かってしまったんですよ。ホテルと学校の関係上、入社をやめることはできないといわれて、衝撃の大阪残留が決まったというわけです。
ホテルで最初に配属されたのはバイキングのビアガーデン。楽しかったですね。玉ねぎ12キロ入りを3ケース切り続けるとか。だからすごく包丁の練習になりました。千人規模の人が来るので、ちょっとしたゲーム感覚です。お客さんがうわっと来たら、もう何もかもなくなるんですよ。朝からあんなに大量に仕込んでいったピザもカツオのたたきも焼きそばも、一晩でなくなるっていう凄さ。大量生産、大量消費を学ぶというか、あれは一番面白かったですね。街のお店では絶対にないことを見られたので、それも僕の財産だと思っています。
仕事に疑問を感じてホテルを退職
それから中国料理「グランド白楽天」という高級レストランへ移ったのですが、それほど経たないうちにバイキングのほうに欠員ができて、そこへ行かなきゃいけなくなって。「白楽天」で本格中華をやらせてもらえるはずだったし、仲のいい同期もいて、先輩とも仲良くなって、楽しくなるなと思っていた矢先に、また大量生産、大量消費を繰り返すことになりました。パーティー料理を用意しているときだったと思いますが、焼売を700個ぐらい並べているうちに、「俺はこのためにわざわざ北海道から来たのか?」という思いが湧いてきて、急激に熱が冷めてしまったんです。当時の僕は尖っていて野心の塊みたいなものでしたから、焼売1個でもいいから作りたい、これをひたすら並べていても自分には何にもならんなと思って。また、疑問に思ったことは年上の人にも言ってしまう性格なので、いづらくなったりもして、1年でホテルを辞めてしまいました。このときの異動がなかったら、もしかしたらホテルのシェフをちゃんとやっていたかもしれませんね。
後半へ続く
大阪市北区曽根崎新地1-9-8 ゴアビル1F