幽玄 主人
三船桂佑(みふねけいすけ)氏
1985年 福岡県出身。高校卒業後、福岡の中村調理製菓学校で2年間料理を学んだのち、大阪の料亭「味吉兆」に入社。心斎橋大丸にある支店「味吉兆」に5年間、その後、本町のセントレジスホテルに開店した「味吉兆ぶんぶ庵」に移り、8年間勤務する。13年間の修業時代のうち最後の5年間は料理長を務める。2019年6月、上本町で「幽玄」を独立開業。オープン1年目で早くも「ミシュランガイド大阪」で一つ星を獲得し、2021年にも選ばれている。
サッカー三昧だった高校生活から料理人の道へ
人との縁に導かれながら、大阪の名店で修業
大阪・上本町エリアの駅近くのビルにオープンし、味にうるさい人々からも高い評価を得ている「幽玄」。名店「味吉兆」で料理長も務めた気鋭の料理人、三船桂佑さんが腕を振るい、大阪や地元福岡を中心とした旬の食材を生かした懐石料理で楽しませます。サッカー少年だったという三船さん。どのような経緯で日本料理の料理人になり、自分の店を持つまでになったのでしょうか。料理人や経営者としての思い、今後の展望などを伺います。
子供時代はどういう職業になりたかったんですか?
母親の助言で職業としての料理を認識
子供のときは、サッカー選手になりたいという夢を持っていました。福岡はサッカーが盛んで、高校も全国大会で上位に入るような強豪校が多くて。そういうのもあって高校までずっとサッカーをやっていました。サッカー三昧の生活で、将来何になりたいかは考えていなかったですね。
それで、高校卒業後の進路を考えることになって、大学進学か、何か手に職を付けたほうがいいのか、専門学校に行くほうがいいのかとか、やりたいことを考えました。そのときに母から料理の道に進んだら、と言われて。子供のときから母は僕に包丁を持たせてくれて、中学生の頃も、母がパートに行っている間、お腹がすいたら自分でパスタとかを作って食べたりしていたんですね。それまで料理が自分の職業としてまったく頭の中になくて、そこで初めて、料理を職業にしてその道を突き詰めていくことも選択肢としてあるんだと考えたんですよ。母が薦めたのは、僕が楽しそうに料理を作っていたのもありますし、僕が勉強嫌いだったこともあるんですけど、今思えば、そのときの母の言葉にはかなり助けられました。
プロの仕事に触れて、料理への思いが深まる
高校卒業後は、福岡の中村調理製菓学校に進みました。ここは九州全域から生徒が集まる指折りの学校で、本気で料理人を目指している人が多かったです。カリキュラムではホテルやレストランのシェフなどプロの料理人の方が来られて、講義をして料理を作るという授業もあったんですが、シェフの目つきや先生とのやり取りなど、料理の世界で皆さんが本気でやられていることに触れて、入学当初はまだ薄かった料理に対する意識も少しずつ変わっていったと思います。
ただ正直、僕は専門学校であまり勉強していなくて。調理実習とかは好きでしたが座学の勉強が苦手で、在学中は居酒屋のアルバイトばかりしていました。学校で学ぶだけでなく実際に働いてみないといけないと思って始めたんですが、そこでいろいろ任せてもらえて包丁の扱いなども経験でき、すごくためになりました。
最初は日本料理の料理人を目指していなかった
実は入学当初はイタリアンかフレンチに行きたかったんです。1年の夏の現場実習もイタリア料理のお店に行き、就職するならイタリアンだなとずっと思っていました。
それが、外部から来られる講師には全国の有名な料理人の方もおられて、なかでもフレンチのシェフは結構厳しかったんです。すごく怖い方が多くて「多分洋食に行くと、自分は続かないぞ」と思いました。
そのとき福岡の日本料理の方が講師で来られていたのですが、その方がとても温厚そうで、「日本料理の怖いイメージと全然違うな」と。それで専門学校の先生に、「僕はあの先生のお店に現場実習に行きたいです」という話をしたんです。卒業前に現場実習があって、自分の好きなところに行けるんですね。そこは「味吉兆」出身の方のお店で、当時福岡でナンバーワンの日本料理店でした。そしたら先生が「そこは人をとっていないから、『味吉兆』へ研修に行ってこい」と言われて。それで初めて「味吉兆」に行くことになったんです。
やはり母や学校の先生たちの助言があったから、今の自分があると思います。先生に「味吉兆」という大阪でも名のあるお店を紹介していただいて、それが始まりになりましたから。
現場実習で日本料理をやりたいという気持ちになりましたか?
日本料理を学ぶ気持ちが強くなった現場実習
そうですね。そこでやっぱり就職は日本料理にすると決めました。そのときに福岡にするか大阪にするかはすごく迷いがあったんです。でも、将来のことを考えると日本料理を学ぶなら大阪のほうがいいかなと。それに、「味吉兆」に現場実習に行ったときに、同じ専門学校や辻調さんを出られた方が働いていて、その方たちがすごく勉強熱心でいろいろ教えてくれたんですね。器のことや「味吉兆」とはどういう世界なのかとか、本物の日本料理というものを見せてもらえたので、実際に学びたい気持ちが強くなったこともありました。だから、すごくいい環境で研修させてもらったと思っています。
卒業後、そのまま「味吉兆」に入って修業されていかがでしたか?
厳しい修業も、柔軟な心で乗り越えて
入社して心斎橋大丸の店に配属されました。1年目は追いまわしという仕事で、まあ言ったら雑用ですよね。先輩たちから言われたものを冷蔵庫からとってきて渡したり、卵を割ったり。一番下積みの仕事ですが、研修のときとは全然違いましたね。研修ではその仕事をしている方の下についていたので、お手伝いしているような感じでしたが、就職して現場で自分のポジションを持つと、仕事に対して責任があるし、雑用一つでも完璧にこなさないといけない。また、そこから上に行くにつれて、だんだん厳しくなっていくので。
「味吉兆」では、大体1年ごとにポジションやセクションが変わります。1年目は全体的な雑用で、2年目になると料理長の下について雑用というかたちになります。この2年目で結構厳しくされて、そこで耐えられなくて辞めてしまうか、続いていくかという分かれ目になるんです。まだ現場が厳しかった時代で、すごく厳しく教えられました。
僕は学生時代に一生懸命勉強していたわけでもないし、自分ができなくて当たり前と思ってやっていたので、柔軟に考えられたのが良かったのかなと思います。本当に理不尽なことで怒られたりするので。例えば、2回目のお客様には料理も器も変えるんですが、料理長はわざと変えることを言わないんです。お椀を持ってこいと言われて持っていったら、「2回目やろ。なんでそのお椀やねん」と怒られて、そこで初めて2回目ということがわかる。自分が常にそのお客様に対して考えないといけないということを、そこで植え付けられるんです。今となれば、それだけ厳しかったのは良かったなと思いますね。
負けず嫌いの心で努力を重ね、ステップアップ
また、直属の一つ上の先輩から偉そうに言われるのが悔しくて、その人に負けたくないと思っていました。自分の仕込みが終われば違うポジションの仕込みをやらせてもらえるんですが、早く自分の分を終えてほかの仕込みを取りに行くことしか考えていませんでした。ただ先輩に負けたくない一心でやっていたことですが、結果的にそれがトレーニングになっていたと思います。
それから少しずつ仕事を任されるようになり、5年経つ頃には中堅より少し下くらいのポジションになって。その頃、新しくできたセントレジスホテルに「味吉兆ぶんぶ庵」が入ることになり、僕も「ぶんぶ庵」勤務になったのですが、心斎橋よりも人数が少なかったため造り場に入れたんです。そこで1年間勉強させてもらったあと、料理長が抜けて八寸場にと、タイミングよく少しずつ上がっていき、移って4年目で料理長になりました。
料理長になられるまで順調だったんですね。
同郷の先輩から受けた心強いサポート
そうですね。同じ専門学校出身の方で、とても面倒をみてくれた先輩がいたんです。5歳上で、僕が入ったときから「自分は30になったら福岡に帰って働いたあと、35で独立する」とずっと言っていて、そのために僕と一緒に器を見に行ったり、ご飯を食べに行ったり、本屋さんに行ったりしていました。そのときに、料理の盛り付け、器、しつらえなど、たくさんのことを教えてもらいました。
その方は僕の前の料理長なんですが、料理長になった時点で「自分は2年であがるから。次の料理長におまえがなれるように教えるので、もっと頑張れ」ということを言ってくれて。そこから僕も、更に自分のスキルを上げるために、メニュー構成や素材の組み合わせ、歳時記と料理をどう組み合わせるかなど、いろいろ勉強しました。先輩の助言でお茶も5年ほど習いましたが、すごく楽しかったですね。
後半へ続く
幽玄
大阪市天王寺区石ヶ辻町14-14 銭屋本舗西館101