亀井健(かめいたけし)氏
1978年3月 大阪府大阪市生まれ。高校卒業後、大阪あべの辻調理師専門学校(エコール辻 大阪)に進学。1997年に辻調グループ フランス校を卒業後、心斎橋の欧風料理店「ぷちローザ」入社。その後、高槻市のフランス料理店「フルーレット」、玉造「リール」、心斎橋「ル・クロ」などで修業。「ル・クロ」では2号店「ル・クロ・ド・クロ」の立ち上げに携わる。2006年、オーナーシェフとして谷町四丁目にビストロ「Kamekichi」を開業。
「ミシュランガイド大阪」ビブグルマンに選ばれたこともある。
2号店の撤退など、苦難のときも乗り越えて
今来て下さるお客さんを大切に、より愛される店を目指す
伝統的なフランス料理をカジュアルな雰囲気で楽しめるお店として、オープン以来、着実にファンを増やしてきた「Kamekichi」。16年経た今も、連日行列ができるほどの人気ぶりです。オーナーシェフの亀井健さんは、フレンチの料理人を志し、調理師専門学校に入学してから紆余曲折を経ながらも、30歳までに自分の店を持つという目標を見事に実現させました。独立までの経緯や、料理人、経営者としての思い、今後の展望などについて伺います。
「ル・クロ」を辞めてから開業までのことを教えてください。
外からフレンチの業界を見てみたいと、別業態の会社へ就職
「ル・クロ」退職後2年半ほど、お好み焼きと讃岐うどんの店をチェーン展開している会社で店長やスーパーバイザーの仕事をしていました。そこはマクドナルドのOBたちが立ち上げた会社で、アルバイト時代にお世話になっていた方が何人かおられたんですね。
一旦フレンチの世界を離れたのには、職場環境を改善したいという気持ちがありました。僕が仕事を始めた頃のフランス料理は世界一と言われていましたが、その世界最高の料理を作っている僕たちが、長時間働いてもお給料は低かった。僕はマクドナルドにいたことで、良くも悪くもわがままになってしまっていたので、それが理解できなかったんです。マクドナルドの社員さんたちにはお金があるのに、僕たちはなんでこんなに我慢しないといけないんだと。自分が店をやるときはそこをなるべく改善したい、なんとかマクドナルドでの経験を落とし込めないかと考えていたところに、その会社から声をかけてもらって。そういう会社の飲食部門に入ってみたらどう感じるかなと思ったんです。結局わかったのは、儲からないとだめだということでしたが。
同級生や同年代の独立開業に刺激を受けて
独立の準備はその2年半の間に始めました。きっかけは同級生の独立開業でした。僕がうどん屋の仕事をしている頃、羽山君というフランス校の同級生が靭公園に「羽山料理店」というお店を開業して、そのとき「くそ、やられた!」と人生で初めて腹が立ちました(笑)。僕が思い描いていた内装、席数、料理、雰囲気とほぼ似た感じですごくいいお店だったんです。
またその頃、「アドック」の高山シェフが、26か27歳で「トゥールモンド」というお店を始められるなど、20代後半でのフレンチの開業が大阪で相次いだんですね。そのことに大分刺激を受けました。
加えて、開業する1~2年後ぐらいに父が定年を迎えることもありました。保証人になってもらったりお金を借りたりするのに父ぐらいしか頼れる人がいなかったので、父が在職中のほうが借りやすいかなと。とはいえ、お店をやるときには父から小言を言われました。何千万もの借金をして店を立ち上げて、そのリスクを負うのは、サラリーマンの自分にはわからないと。「人様に金を借りるぐらいだったら、俺から借りてくれ」というぐらい(笑)。多分息子が信じられなかったんでしょうね。だから、今でも心配して父からしょっちゅうLINEがきます(笑)。
独立開業するも、人脈ゼロからのスタート
自分の店のイメージとしては、20坪、20席ぐらいの店をしたいというのがありました。シェフとマダムと従業員がいて3、4人で営業するというかたちに理想的な広さだったので。内装は、羽山君のお店や「トゥールモンド」など好きなお店をデザイナーさんに参考にしてもらいました。あとは、オープンキッチンで、僕たちと目線が合うようなローカウンターをとリクエストしたくらいでした。
開業資金は国金から1200万借り、不足の1000万ほどを父に出してもらいました。そのうち国金の700万を手元に残し、1500万を開業資金と最初のランニングコストに使ったのですが、父を安心させるために国金の700万を3年目にまとめて返し、そのあとから父への返済をスタートしていった感じです。
そして2006年、28歳のときに開業したのですが、このときすごく思ったのは、25~27歳の3年間は雇われシェフになってお客さんをつける時期だし、伸びしろの大きい時期だったので、フレンチから離れたのはもったいなかったなと。準備期間に畑違いのところで仕事をしていたために、一人もお客さんがいなかったんですね。
うちの店は肩ひじ張らずおいしいフランス料理とワインを楽しんでくださいというのがコンセプトなので、その意味も込めて、自分のニックネームを屋号にしました。覚えやすいし、「Kamekichi行こう」と言ってもらえる店にしたかった。先輩方には大反対されましたが、お客さんがいないのが一番のネックだったので、とにかく覚えてもらうことが第一でした。
開業してから苦労されたことは何かありましたか。
時期が早すぎた?2号店出店の失敗
苦労したのは、やっぱり人ですね。同業者の人脈がなかったので、誰かにスタッフを紹介してもらうこともなかなかできませんでした。
オープンしてからは、料理雑誌で紹介していただいたこともあり、売上は順調でした。ちょうど4年ほど経ってデリを売りにした2号店の「Usakichi」を出したのですが、売上が上がらず3年ぐらいで閉店。結局、その借金返済が最優先事項になってしまい、スタッフにも苦労をかけました。スタッフが続けざまに辞めたりすることも結構あったので、そのときが一番しんどかったですね。
お店の今後の展望としては、どのようにお考えですか。
店舗展開するよりも今あるお客様を大切に
今後のことを言うと、店舗展開するよりも、今来てくださっているお客さんが5年先10年先も来てくださるような店でありたい。それプラス、僕はメニュー以外に、お客さんの要望や好み、シチュエーションなどを聞いて料理をしたりすることがよくあって、お客さんに合わせてそういう変化ができればいいなと思っています。やっぱり今のお客さんを今以上に大事にしたい気持ちが強いし、今来てくださるお客さんがおられるから、こうやって続けられていると思っているので。
独立するためにしておくことは?また料理人として大事なことは?
学生のうちは料理以上に座学が大切
うちに就職する学生さんによく言うのは、座学は今のうちにいっぱいしといたほうがいいということ。働き出すと勉強する時間はなくなるので、料理よりもまず学校で教えてもらえる知識はできるだけ入れたほうがいいと思います。
それと、独立に向けてお金を貯める必要はないと僕は思っています。それより本を買ったり食べ歩きをしたり、自分に投資するほうがいい。
料理人として大事なことですが、僕はフランス校の保護者説明会に呼んでいただいたときにいつも言うんです。うちに入った人に最初に期待するのは、保育園で教わる「大きな元気な挨拶をしましょう」ということと、朝起きたら布団をたたむ、家に帰ったら靴を揃えるなど、お母さんにいつも言われていたようなことだと。最初は料理できないし、ワインの知識もないし、サービスも何をすればいいかわからないけど、お客様に大きな声でいらっしゃいませ、ありがとうございました、先輩たちにおはようございます、お疲れ様でしたぐらいは言えるよねと。期待するのはそこしかなくて、その上でこの子はこういうことができるな、この子は元気だなというのを先輩やシェフに見せることができれば、仕事が増えるんだと。そういうことは言いますね。
専門学校生のみなさんへメッセージをお願いします。
海外からも来てもらえる料理人を目指してほしい
僕のときと比べて、今は独立開業したりする環境が大分変わってきていると思っています。16年前は大阪のお客さんだけを相手にしていれば十分でしたが、明らかに高齢化が進んで仕事をする人間も減り、税金も高くなっていることを考えると、大阪だけの商圏より東京、もっと言えば海外からお客さんを引き込めるぐらいの料理人にならないと、これからしんどいだろうなと。だから、小さなお店で続ければいいというより、もう少し欲を出して海外からも来てもらえる店を目指したほうがいいのかなと、僕は思っています。
料理人は夢のある仕事だと思います。フレンチの場合オーナーシェフやホテルのシェフが多分最終目標になりますが、そこまでいくと、今までやってきた中の夢の発表会のような感じに店が動いていく。しんどいけれど、そこに楽しさがあると思います。
Kamekichi
大阪市中央区鎗屋町1-3-13