草喰なかひがし
店主 中東久雄(ナカヒガシヒサオ)
プロフィール
日本料理「草喰(そうじき)なかひがし」店主。摘み草料理で知られる京都洛北の料理旅館「美山荘」に生まれ育ち、少年期から家業の手伝いに勤しむ。高校卒業後「美山荘」に27年間勤務。1997年に独立し銀閣寺のほとりに現在の店を開業。農林水産省料理人顕彰制度「料理マスターズ」シルバー賞、京都和食文化賞、ミシュランガイド京都・大阪2020二つ星獲得。著書に「おいしいとはどういうことか」(幻冬舎新書)。2022年4月にフランス語版が発刊予定。
野山の草花や野菜を主体とし、食材を余すところなく使い切る草喰(そうじき)料理を手掛ける中東久雄氏。時代や流行が変わっても変わることのない、食と料理の本質についてお話を伺いました。
― なかひがしさんのお料理では、大原の野山で朝摘みした野草を使われているとお聞きしました。毎朝山へ行かれるのですか?
食材と対話することから料理は始まる
お店で提供する草花や野菜は、毎朝私が大原の野山で仕入れてきます。もう20年以上通っているので、野原や山のどこに、どんな野草があるかはだいたいわかる。野菜は農家さんの畑をまわって、その時期のものをわけてもらいます。野菜の中には形の悪いものや、いわゆる「規格外」と呼ばれるものもありますが、どんな食材でも美味しく料理するのが「ほんまの料理人」。実はそう思えるようになったのはある出来事があってのことなのですが。そのあたりのことは「おいしいとはどういうことか」に詳しく書いています。
食材を手に取った瞬間、その食材が何を語りかけてくるか、対話をすることから料理というのは始まります。対話というのは、五感を使ってその食材と向き合うということ。香り、みずみずしさ、手に取った感触。ひと口食べてみて、これをどんな風に料理したらおいしいかなと考え抜くことが、食材の持ち味を活かす料理につながるんですね。しかしこの対話というのは、それが草であれ大根であれ、“命のあるものを扱っている”という感覚がなければできないことだと思います。
― 食材を本当に大切にされていることがわかります。“命あるものを扱っている”という感覚は、どのように養われるのでしょうか。
料理とは食材にふたたび命を吹き込む儀式
普段、食事をするときに「私たちは死体を食べているのだ」と思うことはありますか?ないでしょう。鶏も魚も大根も、食材はすべて生き物。その命を絶ち死体を食することで私たちは命をつないでいます。大根が生き物?と思うかもしれませんが、引き抜くときにはひげ根ががっちりと土を掴んでいて、生きているんだなということがよくわかる。まるで赤子を母親の乳房から引き離しているような気持ちにさえなります。
動物はみずから食べ物を捕獲して食べますね。人間もかつてはそうでした。けれどもほんの100年もしない間に、肉や魚は切り身になり、野菜も形の整ったきれいなものをお店で買うようになった。料理人ですら生きた食材を扱うことがない世の中です。これは、私は問題だと思っています。
子供の頃、家で鶏を飼っていましてね。特別な来客の時は父が鶏をさばき料理を振る舞っていました。中学生の時、初めて自分で鶏を絞めたのですが、毛をむしりながら、手の中の鶏がだんだん冷たくなっていったことを覚えています。よっぽど手を放そうかと思ったけれども、生き返ったら怖いので我慢して握り続けた。あの感覚は今も忘れることができません。
料理人として、命を絶つという体験は大事やと思います。店では毎朝、生きた鯉を調理します。包丁の背で眉間を叩き、失神させてから捌きますが、いつも心の中で「おいしく食べてやるからな」と、言葉が漏れます。大根を抜くときもそう。葉っぱまで全部、おいしく食べてやるからなと。自ら体験するからこそ食材への敬意が生まれますし、葉っぱ一枚、骨一本まで大事にしようとなるんじゃないでしょうか。料理とは死体にふたたび命を吹き込む儀式。人の命をつなぐものへと蘇生させることが料理人の仕事やと思っています。
― 食と命の関係性を身近に感じられるエピソードですね。
私は山の中で育ちましたから、幼いころから山林の伐採なんかを身近に見てきました。自分ではさっぱり忘れていたのですが、中学の卒業文集には「将来は、伐採された木を机や椅子、つまようじに至るまで加工して、絶たれた木の命を蘇らせたい」と書いていた。自然とのふれあいや、料理旅館をしていた実家の仕事に関わるなかで、「命がつながっていく」ということを体が感じ取っていたのかもしれません。
環境の影響がどの程度のものかはわかりませんが、私の三人の息子も、教えたわけでもないのにみんな料理人になりました。この仕事は人が休みの時は休めないでしょう。だから平日、子供たちが学校から帰ってくるのを待って、夕方からバーベキューに行っていました。貴船の河原で、車のライトをつけてね。子供たちはそれが思い出に残っているようです。私はおいしいものを食べさせてやろうと張り切って山菜料理なんかを作るんですが、子供は口をそろえて「お父さんの料理をはまずい」と(笑)。そんなことを言っていた長男も、今はうちの店を手伝っています。
― 一度は死んだ食材の命が、料理人の手によって新しい命を得る。スケールの大きなお話ですね。命の循環を感じます。
「しあわせ」は「仕合わせ」 つながりから喜びが生まれる
最近、サスティナブルという言葉をよく耳にします。自然に配慮して、資源を使い果たさないという趣旨ですが、私はその根本に、「報恩」と「感謝」がないといけないと思っている。究極のところ、私たちが生命を維持できているのは、太陽と水と空気のおかげです。太陽にお金を払おうと思ったらいくらかかりますか。それだけ膨大で計り知れない恩恵を、私たちは自然から受け取っている。感謝があれば、無駄をなくそう、還元できるものはお返しをしよう、地球を大事にしようという行動につながりますね。すべてはつながっているのだから、自分の立場でできることをして、喜びに変えることが大切です。SDGsのバッヂをつけていればいいということではありません。
この「つながり」というのは、日々の仕事にも同じことが言えますね。せっかく専門学校で勉強したのに洗い物ばかりで面白くない、そう言ってすぐに辞める人もいるようですが、茶碗を洗うことも料理をすることも本来は同じこと。きれいな盛り付けがしたかったら、きれいな器を準備することも喜びになるでしょう。それを、綺麗な盛り付けはしたいが茶碗を洗うことはしたくない、というのは、どうなのかな、と、私は思います。
食べることは生きる根本ですから、それを担う料理人には、それなりの覚悟と奉仕の精神が必要です。仕事には「仕える」という字が使われていますが、これは「自分の意思で人のために尽くす」ということ。相手が喜べばその喜びは自分に返ってくる。しあわせというのは、それぞれの仕事と仕事が合わさって生まれるもの。自分一人では得られません。
― なかひがしさんではお料理はもちろんのこと、ご主人の軽妙なトークを楽しみに来られるお客様も多いと伺っています。
「一座建立のもてなし」は主(あるじ)の務め
食事をおいしく召し上がっていただくには、やはり楽しいリラックスした雰囲気がないといけません。サービスというのは人の気分を良くすることですから、私はよく駄洒落を披露するんです。少しおとなしくしていると「今日は口数が少ないな」と言われる始末。最近は寄席の店みたいになってしまいました(笑)
カウンターは一座建立ですから、料理だけでなく会話や花一輪にまで工夫を凝らし、心づくしの空間を創ることが店主の務め。その席で知らない人同士が友達になって、次は一緒に来てくださるということもあり、それは嬉しい瞬間です。
今回のコロナ禍でしばらくの間アルコールの提供ができませんでしたが、美味しい食事にお酒は欠かせないということを改めて実感しました。お酒のない食事の席では、私の駄洒落も滑りっぱなし。お客さんもシーンとしてしまってね。お酒とともに笑って食事をすると身も心も和みますし、消化吸収もすごく良くなる。料理が三倍おいしくなると思っています。
― 最後に飲食業界を目指す学生さんにメッセージをお願いします。
レシピに頼らず食材に寄り添えば、料理はもっと楽しくなる
料理は本来、特別なことではありません。人々のお腹を満たして、心を豊かにすること。その基本は家庭の料理にあります。お母さん、あるいは家の誰かが、愛する家族を守るために食事をつくりますね。自分はゆっくり食べられないかもしれないが、そこにはみんなのお世話をするという喜びがある。料理人にとっても、その心は同じです。
食事の根本は生命維持、いのちをつなぐ、ということです。食べるという漢字は「人」を「良くする」と書くでしょう。だから、体の末端にまで、栄養が行き届くように調理をする。よく、ご高齢のお客様が「今日はよく食べたなぁ」と言って下さるのですが、体が欲するものは、やはり体が受け入れる。「体が喜んでいる」と言っていただけることが、私は何より嬉しいですし、そういう料理をこれからも作っていきたいと思っています。
今はたくさんの情報が溢れていますが、是非、五感を使って、食材と対話をしてみてください。レシピどおりに味付けをする前に、まずは食材を少しかじってみる。同じ野菜でも、甘みがあるもの、えぐみがあるもの、いろんな個性があることがわかるでしょう。まずは食材の個性に寄り添っていく。そして、目の前にある食材が、どこで育てられ、どんなルートを辿ってここに来たのか、思いを馳せてみて下さい。きっと、料理がもっと楽しくなりますよ。