年に1回、調理師学校の先生・学生をはじめ、関連する各方面の人たちが集まり、さまざまな知識をインプット・アウトプットする場である調理技術教育学会。今年の夏に開催された学会第3回学術大会の中から、3つのトピックをダイジェストにして、3回シリーズで紹介します。
第1回の今回は、現役の医者にして調理師専門学校で授業を受け持ち、さらに東京調理製菓専門学校校長でもあるという異色の先生、馬渕知子先生が登場。
ここでは馬渕先生の講演のダイジェストと、筆者(食のライター・柴田)の感想をお伝えします。
vol.1 栄養と健康の知識で「選ばれる」シェフになろう
私たちは、口から入れるもので生かされている
馬渕先生は大学の医学部を卒業し、大学病院で働いていた時に、人間の健康にとって食がいかに大切か目覚めたと言います。
「ほぼ同じ年齢で、同じような胃がんの手術をして入院していた患者さんが2人いました。その2人の回復スピードは、食に興味を持っているかどうかでまったく違うのです」
食べることが好きな人は、普段からしっかりと食事をしています。また「早く再びおいしい食事を食べられるようになりたい」という強い意欲も回復に影響します。
この経験で、馬渕先生は「私たちは、口から入れるもので生かされている。食は本当に大事」と心の底から思ったのです。
「であるなら、食のプロである料理人やパティシエの役割もまた、社会の中で大切なはず。彼らが社会的な役割を充分に果たすには栄養や健康の知識があった方がいい」と、馬渕先生。
こうした知識は、社会に出て忙しくなってからではなかなか学ぶ時間が取れません。学生時代にこそ、学んでほしいと馬渕先生は強調します。
目、口、鼻の満足。その先にあるのは?
ではなぜ、シェフには栄養と健康の知識が必要なのでしょう? それらの知識が人々の健康に直結するから、というのが最大の理由です。しかし、もう一つ大きな理由があります。
それは、「人々が満足できる食事の内容が、時代とともに変わってきたから」です。
「今まで、私たちは、主に目と口と鼻で食事を楽しんできたと思います。食欲をかき立てる見た目で、香りがよく、味もおいしい料理。それで満足してきました。食べる側だけではありません。料理人やパティシエの側も、見た目、味、香りで食べる人を満足させるよう、努力してきてきました。
しかし今は、これだけでは人は満足しないと思うのです。なぜならば、私たちは、今、非常にたくさんの情報を得られるようになっています。テレビ、雑誌、ネット、SNS。毎日毎日、山のように情報が入ってきます。なので、食で満足感を得るには目、舌、鼻に加え、知識も必要になったといえるでしょう」
たとえば、同じトマトジュースでも、味だけでなく、「善玉コレステロールを増やす」「高めの血圧を下げる」という表示があると、そちらを選んだ方が、飲んだ後の満足感が高まる人が多いはず。
牛丼も、通常の牛丼と「サラシア(糖尿病予防、脂肪燃焼効果、美肌効果が期待される植物)成分入り」の牛丼では、サラシア入りの方に満足する人が多そうです。
栄養と健康の知識がシェフの付加価値になり、選ばれる理由になる
「栄養と健康の知識は、これからの時代、料理人やパティシエにとっての付加価値になります」。その考え方を、馬渕先生は以下の表にまとめました。
「調理師の一番のベースになるのは技術。衛生も含めます。これらがなければ何もはじまりません。
そして、差がついてくるのがセンス。生まれ持ったものもありますが、経験と努力で磨くことができます。
その次に乗ってくるのが、知識です。栄養、健康の知識を若い時に学校で学んでいれば、他と差をつけることができます」
ではここで、馬渕先生が発表でたくさん教えてくれた、栄養と健康に関するお役立ちトピックの中からいくつかピックアップしてお伝えします。
血糖値の急上昇を避ける意外な方法
血糖値とは、血液中に含まれる糖分(ブドウ糖)の濃度のこと。食事をすれば血糖値は上がりますが、その上がり方があまりに急激だと健康に悪影響を与えます。とくに脂肪の増加につながる点が問題です。
それでは、血糖値を急上昇を防ぐ対策には、どのようなものがあるのでしょう?
現在、よく知られているのは、「糖質(穀類、芋類、砂糖や蜂蜜などの甘味調味料)の前に食物繊維(野菜)やタンパク質(肉や魚)を食べる」とすること。こうすることで、糖質の吸収速度を落とすことができます。
実は、他にも血糖値の急上昇を防ぐ方法があります。それは、食事中に「笑い」があるか否か。たとえば、退屈な講義を聞きながらの食事と、漫才を見ながら大笑いしながら食べた食事では、食後血糖値の上昇の値が1.5倍ほど違う、という研究結果が出ています。
黙々とつまらない思いをして食べるより、ワイワイと楽しみ、笑いながら食事をするのは精神的にも、健康的にも好ましいことなのです。
脳は脂質と水の塊
「脂質は身体に悪い」。そう思い込んでいる人は実に多くいます。たしかに身体の脂肪を減らすことはこの飽食の時代にあって、健康上の大きな課題です。しかし脂質は、人間の身体の中で脂肪以外の形でも多く存在し、非常に重要な役割も担っているのです。
なかでも大切な役割は、細胞膜の材料である点です。人間の身体は何十兆個もの細胞でできていて、それらはすべて細胞膜で包まれています。また細胞間の情報のやりとり、たとえば「このホルモンを増やして」などの脳からの指令も、細胞膜を通して必要な臓器や組織に通達されています。
脂質の役割でもう一つ重要なのが、脳の材料となっている点です。「脳は脂質と水の塊」とも言われています。神経の材料にもまた、脂質が多く使われています。
さらに、脂質は血液やホルモンの材料にもなります。このように、脂質は人間にとって必須な物質なのです。
記憶と学習のDHA、血液サラサラのEPA
いずれも脂質の一種であるDHA(ドコサヘキサエン酸)、EPA(エイコサペンタエン酸)が身体によい、と聞いたことがある人は多いはずです。DHAはサバ、マグロ、サンマ、ブリ、ウナギの脂に、EPAはサバ、ニシン、イワシの脂に多く含まれています。
DHAは、脳や神経組織の材料として多く使われています。特に、胎児や乳幼児の時期は、脳と神経細胞を作る成分として非常に重要な存在となります。また、乳幼児期以降も、DHAは記憶力の低下、学習能力の低下を防ぐ働きを持つとされています。
一方、EPAは、いわゆる「血液サラサラ」、つまり血液の凝固を抑える働きがあることで知られ、血栓症の予防や改善をもたらします。そのほか、動脈硬化などを改善する働きもあります。
ちなみに、カナダの極北で暮らす民族であるイヌイットは、野菜を食べません。極北の地で野菜は栽培できないからです。にもかかわらず、伝統的な食事をするイヌイットは健康な身体を誇っています。とくに血液関連の数値は抜群にいいそうです。
なぜでしょう? それは、彼らの主食であるアザラシの脂肪にたくさんのEPAが含まれているから。アザラシは餌として日々大量のイワシなどの青魚を食べるので、そこに含まれるEPAがアザラシの脂肪に移っているのです。
身体にいい魚の脂。効果的にとるには?
DHAもEPAは、できるだけ効率的に身体に取り入れたいところ。サプリメントも発売されていますが、自然に、魚から取るとした場合、どのような点に注意したらよいでしょう?
それは、調理法です。調理法によって脂が魚に残る量は変わってきます。もっとも多く残るのは、生、つまりお刺身です。魚がもともと持っている脂を100%とることができます。
次は、焼き魚。焼くうちに脂が熱で溶け出るため、食べることができるのはもともとの量の75〜80%となります。そして、いちばん脂が流出してしまうのが、揚げた場合。油脂は互いに引き合うので、魚の脂は揚げ油の中で非常に溶け出やすくなるのです。そのため、食べることができる脂の量はもともとの40〜50%まで落ちてしまいます。
調理方法一つとっても、こんなに変わってきます。栄養の知識と調理の知識をかけ合わせることで、より効果的でおいしい食事を作ることが可能になるのです。
一歩秀でた活動をする料理人、パティシエに
馬渕先生は、「料理人やパティシエは、食べ物ひと口で人を笑顔にできる素晴らしい職業です」と言います。また、「この職業は疑いを持たせず、人に物を食べさせることができる。これは非常に稀なことです。社会的な信頼の上に成り立っている職業であり、社会に対して重大な責任を負っているのです」とも言います。
大きな責任と可能性を持つ料理、製菓の世界。知識を備えることで、料理人やパティシエの活躍の場はこれから増えていくはず。
「そうした一歩秀でた人たちが、これからの社会にいっそうの健康をもたらしてくれる。社会を変えていくと信じています」
◆講演を聞いて〜知識を手にして、時代に合わせたアップデートを〜
料理人は料理に関する膨大な知見と技術で仕事に取り組みます。センスも研ぎ澄まします。そうして磨かれた料理のスキルはまさに尊敬されるべきものです。ただしこれからは、栄養と健康の知識も必要。それも正しい知識です。
今回、馬渕先生が料理人に向けて下さった提言「技術、センスに加え、栄養と健康の知識も」には強い説得力があります。料理は感覚の世界と言われますが、厳密な知識と科学的思考に基づく医学の世界からの料理人へのアドバイスは大変貴重であり、エールをいただいたようにも思います。
この50〜60年で、料理人の社会的地位は格段に向上しました。今のようにシェフがさまざまなメディアで人気を得たり、社会で求められる仕事として料理人が認識されるようになったのは、先輩たちが時代に合わせながらこの職業を魅力的にするよう努力を続けてきたからに他なりません。
なので将来を担う学生の皆さんも、時代に合わせ、料理人をアップデートさせることが必要です。「前の時代より、よりよく」の精神で、ぜひ「知識のある」料理人になるべくチャレンジしてください。