出身はエンジニア、今は家業の銭湯の若旦那。そんな一風変わった経歴の持ち主がいます。東京都品川区にある銭湯「金春湯」の経営に携わる角屋文隆さんです。そう聞くといろいろ疑問が湧いてきます。「エンジニアと銭湯経営の二足のわらじはなぜ?」「エンジニアとして身につけたスキルは銭湯で役立っている?」「家業以外でエンジニアの力を生かす道はある?」。異色の銭湯の若旦那に、さまざまな疑問を直撃。そしてさらに、エンジニアとして企業人として学んだことが今の角屋さんをどのように支えてくれているのかを尋ねました。
キャリアマップ編集部 文/ITジャーナリスト・ライター 岩元直久
インタビューを受けてくれたのは......
金春湯 企画担当 & 風゜呂グラマー
角屋 文隆(かどや・ふみたか)さん
新卒でメーカーに就職し、エンジニアとして顕微鏡のソフト開発に携わる。家業は東京・大崎の歴史ある銭湯・金春湯。会社員としてのエンジニアを続けながら家業の手伝いを始め、2019年夏に会社を退職して銭湯経営に参画。エンジニアとしてのスキルや人脈などを生かしながら銭湯経営を拡大させつつ、プログラマーとしての活動も継続している。
キャリアマップ編集部 文/ITジャーナリスト・ライター 岩元直久
インタビューを受けてくれたのは......
金春湯 企画担当 & 風゜呂グラマー
角屋 文隆(かどや・ふみたか)さん
新卒でメーカーに就職し、エンジニアとして顕微鏡のソフト開発に携わる。家業は東京・大崎の歴史ある銭湯・金春湯。会社員としてのエンジニアを続けながら家業の手伝いを始め、2019年夏に会社を退職して銭湯経営に参画。エンジニアとしてのスキルや人脈などを生かしながら銭湯経営を拡大させつつ、プログラマーとしての活動も継続している。
生物好きからエンジニアとして就職、そして銭湯経営への転身
パソコンさえあれば、どこでもプログラミングができてしまう。
金春湯は昭和25年から続く東京・大崎の銭湯です。角屋さんの家族が事業を受け継いでいて角屋さんが生まれたときには銭湯が家業だったそうです。一方、角屋さん自身は「子どものころから生き物や釣りが好きだったことから、理学部に進み、生物学の研究をしてきました」と語ります。そのとき、顕微鏡を研究道具として使っていて、就職するに当たって、これまで研究道具として使っていた顕微鏡を作る側の仕事をしたいと考えたそうです。就職活動では光学系のメーカーへの採用が決まり、顕微鏡のソフトウエアを開発する部門に配属されてエンジニア人生の第一歩が始まりました。
会社では多くの人が顕微鏡の開発や製造に携わっていますが、「ユーザーとして顕微鏡を使っていた人はあまりいませんでした。実際に使用したときの経験を踏まえて顕微鏡を開発することに、モチベーションを持って取り組んできました」と角屋さん。1つのプロジェクトで数年かけて新製品の開発からリリースまで関わったこともあります。そのときは、「製品化できたうれしさが3割、お客さま先で不具合などが起きたらどうしようという不安が7割というのが正直なところでした」。
充実したエンジニア生活を送っていたところ、転機が訪れます。2017年夏、銭湯経営に携わっていた両親と祖母の3人のうち、母が怪我で入院するというアクシデントが起きてしまいました。角屋さんは当時をこう振り返ります。「ぎりぎりの人数で店を回していたため、母の入院で人手が足りなくなりました。そこで会社員をしながら、土日や帰宅後に銭湯を手伝うようになったのです」。家業とはいえ、これまで関わることのなかった銭湯の仕事に、角屋さんは、「会社でのエンジニア時代は、自社製品を作っていたので、お客さまの顔を見る機会が少ない職場でした。ところが、銭湯はお客さまと対面する仕事で、とても新鮮でした。疲れた顔で来店したお客さまが、いいお顔になって帰って行かれるのを見ると、やりがいのある仕事であることを実感しました。備品のドライヤーを替えてみたら、すぐにお客さまから反応があるといったように、施策に対するフィードバックがとても早いことも魅力でした」
しかし、魅力は感じながらも、角屋さんが本格的に家業を継ぐまでにはもう少しの時間が必要でした。
エンジニアのスキルや経験を生かして銭湯を活性化
手伝いを始めたころ、金春湯の来客数は決して多くはありませんでした。両親と祖母の3人から、角屋さんも含めた4人の生活を支えるには、売り上げや利益をもっと上げる必要がありました。そこで角屋さんが会社員を続けながら行ったのが、ホームページ(Webサイト)の開設と、SNSの活用でした。「東京の銭湯でホームページを開いているところは少数派でしたし、当時、SNSで発信しているところはもっと少なかったと思います。WebやSNSに知見があったわけではありませんが、エンジニアの習性として学んで試してみようと思ったのです」(角屋さん)。
ホームページの開設やSNSへの発信は、思ったよりも早く手応えを感じられるようになりました。「結果的には1~2カ月経過したころ、お客さまが増えてきたと実感しました。特にSNSの拡散力はすごかったです。SNSを見て来店してくださったお客さまが金春湯のことを投稿すると、そこからさらに多くの方に金春湯の情報が広がっていくのです。お店の努力だけでなく、お客さまのつながりが来店客増加をもたらしてくれました」(角屋さん)。
売り上げが伸びてきたことも後押しし、2019年夏に会社を円満に退社し、銭湯経営という新しい道に乗り出した角屋さん。時間ができたことで、最初に取り組んだのは男女別、時間別の来店客の可視化システムでした。「1カ月ほどで作ったシステムで、来店客の推移や傾向がわかるようになりました。両親にグラフ化した来店客の推移を見せると、だんだんお客さまが増える様子からモチベーションが確実に高まってきました」(角屋さん)。
さらにコロナ禍になってからは、人気のサウナの混雑状況をホームページにリアルタイムに掲出するシステムを開発。密を避けながらサウナを楽しみたいというお客さまの気持ちに応えることで、厳しい時期を乗り切ってきました。
一方で、角屋さんはユニークな取り組みも進めてきました。その1つが「エンジニア銭湯」というイベントの開催です。金春湯の周辺の品川、大崎、五反田といった地域にはIT系の企業が多く集まっています。そうした企業のエンジニアなどに向けて、銭湯を舞台にした交流会を開いたのです。広間にエンジニアが集まり、数分のショートプレゼンであるライトニングトークを順番に進めます。プロジェクターでスライドを投影し、番台の中からプレゼンするといったユニークなスタイルです。ライトニングトークの後に皆でお湯に浸かり、ビールを飲んで交流を深めていきました。角屋さんは「Twitterなどで人気を呼び、有料のチケットがすぐに売り切れるほどでした。イベントを開催するようになって、金春湯の認知度がさらに高まりました。コロナ禍以降、開催できてきないのが残念です」とちょっと悔しそうです。
金春湯で開催されたエンジニア銭湯の様子。
人と人のつながりが紡ぎ出す、エンジニアの仕事
オリジナルグッズ、人気ショップとのコラボTシャツなど、グッズもさまざま
金春湯を背負って立つようになった角屋さんですが、すべてのリソースを銭湯経営に注ぎ込んでいるわけではありません。「会社を辞めてからずっと、エンジニアの仕事を途切れることなく続けています。1つは銭湯に関することで、多くの銭湯からホームページの作成の依頼を受けたり、地域の浴場組合の事務作業効率化のためにExcelマクロを組んだりといった仕事をしています。もう1つは、銭湯とは関係なくフリーのプログラマーとして、企業からのシステム開発の依頼を受けています。エンジニアとして身につけたプログラミングや設計の基本は、業界やジャンルに問わず汎用的に使える能力ですから、会社を辞めてもできることはたくさんあると考えています」(角屋さん)。
銭湯のホームページや浴場組合のシステムの仕事は、金春湯の若旦那としての人的ネットワークが生きているのですが、他業界のシステム開発の仕事はどのような経緯で依頼されているのでしょうか。角屋さんは「会社時代の元上司からのご縁なんですよ。会社員のころの社内のつながりというのは、大切だと感じています。会社を辞めてからエンジニアとしての仕事をいただくこともそうですし、元の会社の知り合いが今でも東京を横断してお風呂に入りに来てくれたりもしています。業務中の関係だけでなく飲みに行くなどの付き合いも含めて、社内での付き合いというのは会社を辞めてからも大切なのだと改めて感じます」と言います。
大切にしている人と人のつながりは、角屋さんの「ビジネス」をさらに拡大していくことになってきたようです。角屋さんは、銭湯の経営とITシステム開発の2本柱で、2022年にビジネスを法人化しました。「実は、隣街の大井町で長年の知り合いが経営していた銭湯を引き継ぐことになったのです。これも人と人とのご縁ですね。銭湯2件とシステム開発で一定の売り上げになることから法人化することにしました」(角屋さん)。
サウナが人気で、角屋さんが大好きなクラフトビールも提供している金春湯に続き、大井町の銭湯もサウナとビールを売りにしていく計画です。「金春湯には置けなかったビアサーバーを導入して、ビアバー付きの銭湯を目指しています」と角屋さんは笑います。
エンジニアだからこそ自由になれる
大井町で新たに経営するのが「すえひろ湯」。
金春湯と大井町の銭湯の2店舗に営業を拡大することで、IT化の取り組みも新しく進めています。角屋さんは、「金春湯は自宅が近いので何かあってもすぐに駆けつけられるのですが大井町は急いでも10分ぐらいかかります。そこで、設備が異常になっていないかどうかをWi-Fi接続のカメラの動画から自動検知する仕組みを作るつもりです。年に数回といったトラブルを自動で検知して、必要に応じて駆けつけられる態勢を整えます」と話します。
角屋さんにとって、銭湯経営を継ぐことは、エンジニアのスキルやノウハウを手放すのではなく、存分に生かし続ける環境を手に入れることのようです。
「プログラミングのようなITの仕事は、エンジニアの仕事の中でも副業にしやすいです。銭湯と共存できる仕事はなかなかないと思いますが、プログラマーならば時間があるときに番台のノートパソコンでプログラミングをすることもできます。銭湯は初期投資に何千万円もかかりますが、プログラマーならばパソコン1台で始められますから」と角屋さんは、ほほ笑みます。エンジニアだから、プログラマーとしてのスキルを持っていたから、会社員時代とは異なる自由度の高い働き方を継続していけるといえるのです。
そんな角屋さんは、専門学校で学ぶエンジニアの卵の皆さんに、こんなメッセージを届けてくれました。「基本的に、過去にできた人とのつながりから、仕事をいただくことが多いですね。その一方で、特にITの仕事は流行り廃りが早く、常に勉強し続けることが大切です。いろいろなことに興味を持ち、勉強を続けながら、いろいろな人とのつながりを意識することが大切ではないでしょうか」。
そして、もう1つ。エンジニアから銭湯という全く違う世界に飛び込んだ角屋さんならではのメッセージがあります。「エンジニアになると、周りはITなどに詳しい人でいっぱいです。でも銭湯をはじめとして、世の中にはITスキルを持つ人が足りなくて困っているケースがとても多いのです。普段と違う視点で他の世界を見てみることで、自分の能力が生かせる場所がたくさんあることに気づくと思います」。角屋さんの柔軟な発想や勉強する力、そして人と人のつながりを大切にする心を、皆さんもまねしてみてはいかがでしょうか。
■角屋さんが経営する銭湯
金春湯
東京都品川区大崎3-18-8
(JR大崎駅から徒歩8分。都営地下鉄戸越駅、東急戸越銀座駅からも徒歩8分)
開館時間:平日、土曜、祝日 15:30~24:00、日曜 10:00~24:00
休館日:毎週火曜日
2種類のお風呂と水風呂があるお湯のほか、特殊なストーブを使ったサウナが人気!